昭和53年03月29日 朝の御理解
御理解 第18節
「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここへ参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
生神を目指すと言う事は、どう言う事であろうか。皆さん考えてみられた事があるでしょうか。お道の信心者、信奉者皆んなが生神を目指すと、いわれておりますけれども、生神を目指すと言う事はどう言う事であろうか。例えばお相撲を目指す人がやはり夢にでも思うでしょうね、横綱を張って土俵入りをする姿というものをやはり末はやはり横綱か、例えば相撲取りになる人達はやはりそういう夢を持って、そのためには先ず力を得らなければならない。
勿論横綱としての品格も、それには自分がどこが欠けておるか、自分の特徴はどこかとそう言う事を先ず見極めて、そして欠けておる所をいよいよ補うて行き自分がこれが長所だと思うておる所をいよいよ伸ばして行こうとする、精進をすることでしょう。皆さんの場合でもそうです、本気で生神を目指すという、皆もその通りのおかげが受けられるんだと教祖様は教えておられるですから、皆さん総生神を目指す合楽の信奉者の皆さんが、一人一人が生神を目指す信心。
只何十年合楽に御神縁を頂いておりますと言うだけではだめです。本当に目指さなければ、そうすると大変な自分を分ります。これでは皆さんが信心を段々となさっておられます、信心がいよいよ少しづつでも、身に付いて参りますと自分の心の中に、本当に有り難い勿体ない、有り難いなあと。昨夜私此処へ出てきたのは、十二時頃だったでしょうか、真っ暗な中で誰か一人、御祈念をしておられる。
それからここで電気をつけて、おかげの泉の原稿がもう今日朝取りに来るというから、今日中に見といて下さいというので、昨夜又改めて読ませて頂くつもりで、電気を点けて座らせて頂いたら、宮崎の古屋先生でした。今日は自動車二台でこうやってお参り出来た、その一人一人の上の事を願われて一人一人が、もう先生こんな有り難いことはございませんと言う事、もう先生こんな有り難いことは御座いません。(繰り返し)
しかも私がお願いしとって、こうでしたというのでなくて、自分の周辺に一人一人合楽の信奉者が出来て行く増えて行く、しかもその一人一人がこの様なおかげを受けて行かれる、そのことが有り難うして有り難うしてもう私はそれは、生神の心の状態だと思うですね。そういう心の状態が開けてくる。そこでそういう時ばかりではない時を思うてみて、これでは、有り難くなれないはずだ。れでは合楽の信心頂いとる者の値打ちはない、と言う様にです、分かるところを分からせてもろうて。
改まるところを改まらせてもろうて、研くところは本気でそこに、研きをかけていこうという。精進がなされなければなりません。だから生神を目指すと言う事は、まず自分の立場、自分の頂いておる信心の状態と言うものを見極めて、例えば信徒会長なら信徒会長として、合楽の信徒会長として、合楽の総代として、合楽の何何と例えばしてです、果たして自分は合楽の総代としての御用を頂いておるが、総代としての御用が出来ておるであろうかとね、それは総代さん達が皆集まってね。
百円ずつなら百円ずつみな集めて、合楽総代一同で合楽教会全体の事をお願いしよる。それで私は総代言うならば総代としての、値打ちがそれであるだろうか、その位の事なら誰でん出来る。此処では沢山に合楽教会又は親先生と言うて、それこそ教会の事を本気で願っておられる方は沢山ある。総代としてはどうおらなければならないか、どうある事が本当なのか、言うなら名総代を目指して貰うと言う事は、どう言う事なのか。
どう言う事に気を配り、どういう修行をして、どういう手本になるような信心をしなければならないかと、言った様な事を何時も心の中に、それこそ寝ても醒めても教会のことを思って、次のいうなら教会運営のことの上についても、私は思いをめぐらせれる信心。例えばそう言う事でも、果たして自分はどれくらいの思いを込めておるかと、ええですか、生神を目指すと言う事は先ず手元からです。
はあどうでも生神様、生神様と痒い所に手の届かないような、勿論私共が一生かかったってですよ、生神と言った様な境地に、てんなんてんて事はとても難しいと思います。けれども目指すところはそこなんだから、というて私生神様を目指しておるとではいけんでしょうもん。それには自分が合楽でご信心を頂いておる、合楽の信者として、これで良いだろうか、合楽の信心の芯のように言われる、本当にすべてのことに御の字をつけ、全ての事柄を神愛とし、神願として受け抜かせて頂こう。
合楽の信心の芯だが果たして自分は、その信心にどれだけ忠実であろうか、と私は思うてみなければいけないと思う。自分の都合のよか時だけ拝みよる、都合の良か時だけお参りしよる。十三日会の日だけは御用しよる、そげなことじゃとても生神を目指しとるとは言えない。私はもう昔から日本一を目指さして頂くだいとる、いうならば末は横綱かと言う様な所を、目指さして頂いておる。為には先ず力を受けなければならないね。そんなら横綱としての品も品格も受けなければならないね、
力だけではない技だけではない、横綱をいうなら張って土俵に上がった時の、いうなら素晴らしい横綱ぶりというものを、何時も夢に描いておる。そしてこれでは末は横綱というものの心掛けではないことが分かったら、それを一つ一つ改めても行こうね、また稽古もさせて頂こう、又力もいよい得て行こう、技もいよいよ身に付けて行こうという、その事に一生懸命にならせて頂い取りますね、私の様な者が日本一になれるなんて、それは本当に夢でしょうけれども、夢でもやはり持たなければいけないです。
末は生神とこう、生神の私は本当に、小倉の桂先生が九州にお見えられた時に、四神様が小倉の地に布教せよと、小倉には生神様が出来られた、と皆から言われるようになれ、小倉の生神様を目指されたんです。そしてあれだけのいうなら御比礼を頂かれた。合楽の生神様を目指すね、生神様があげなこと言いござる、生神様があげな事しござると、例えば後ろ指を指される様な事であっては、生神様にキズがつくね。
そこで生神とは生神の信心とは、ここはまだ精進不足であるここは改まり不足であり、ここはいっちよ本気で研ききらなきやならないところだ。というふうに精進を惜しまないようにです、銘々が合楽の信者信奉者として、いうならば成程合楽のご信心者は違うな、と見られ思われる様な、人格と信心の徳と人徳と兼ね備えさせてもろうて、成程合楽流のおかげとは、あぁいう輝かしいおかげであろうかというような、おかげを打ち建てて行かねばならない。
ためにはそれで良いと言う事はない、只遠いところにある生神様を目指しとります、というだけではいけない。そこで私はです、家族でうちのお婆ちゃんは合楽にお参りをしなさると、そんなら嫁からでも子供たちからでも言われる当時のお婆ちゃんのされること、言われること見よったら聞きよったら本当に頭が下がると言う様な、お婆ちゃんに先ずならなきゃならない、先ず爺さんにならなければならない。いうなら主人んにならなきゃならない、家内にならなければならない。
もう家のお母さんが合楽にはそうに参るばってんかもうすること言う事が、もうあげなこっちゃけん俺は付いて行こうごとなかて息子がいうごたるこっちゃいかんじゃない。先ずそこからおかげを頂いて行かにゃいかんです。昨日は竹葉会でもう一人一人の方の聞かせてもろうてから、もう本当に最近の合楽の方達の信心の、いうなら進み方というものは、もう驚くばかりとまあ思うて聞かせて頂いたんですけれども、中に久留米の佐田さんが発表しておられました。
先日二十七日があちらの共励会、共励会で主人がこういう有り難いことを発表しておりましたというて、これも主人から聞くと、まあだ素晴らしいんですけれどもと言うて、お話しておられました。この頃はこの拝むと言う事の素晴らしいこと、一日の内にもう事に処する前に、じっとこう手を合わせて合掌する、その拝むと言う事前に例えば、お便所に行こうと思うたらお便所に行く前に御祈念する。お食事は勿論ただ頂きますで拝みよったつが真から御祈念をさせてもらう。
これを最近私親先生が言われるあの間とはねこう言う事であろうかと思うという話をなさったそうです。私は素晴らしいと思うたと、やりそこないがないです。お客さんと相対する前に先ず拝む、もう何をするにも先ず拝む、そこに間が出来る、その間が素晴らしい。生神へ目指すやはり初歩のところは、こう言う所から入つていかなければ駄目だと思うです。だから失敗がある筈がない。自動車に乗る前に先ず拝む、降りたらまた拝む、もうこれは拝む時間がいうなら勿体ないと、言う様な事ではない。
もう生活の中に拝む事が入ってしまっておる。いうなら拝みの一日であると言う事になる。生活即信心というのではない、信心が即ち信心でなからなければならんというのは、そう言う事ではなかろうか。久留米の井上さんが発表しておられました。先日から大学生ばかりの会ですね、学生会が此処で一夜、信心実習会を致しました。それに一人息子である光郎さんが、今度大学を卒業されました。それで是非その学生会に、参加してもらいたいという親の願い。
でその事を話された所が、ありゃそりゃ丁度僕は高校の同窓会がその日にあるんだよとこう言う、けど同窓会てなんてん、そげなこつはどうでもいいじゃないの、どうでんこうでん学生会に参加しなさい、と言うてお母さんがすすめた。私はこの辺の所の信心の教育とあぁそんならしょんなかねという親とですね、例えばその価値ですよその同窓会価値と学生会の価値を思うた時です、なら一にも神様二にも神様という生き方が、そのお母さんに身に付いておるなら、これはそう言わずにはおられない事だと思うですね。
どっちが大事かとね、そればってん同窓会にも行こうごとある、まあその生半可な返事である。そこでお母さんの信心が始まった。そのことを毎日祈り願われる、同窓会に使うという金額はそのまま神様へお供えさせて頂いた。一生懸命願われたね、ところがやっぱり同窓会に行きたいと、いう気持ちの方がどうも強いらしい。けれども私は昨日その話を聞いて親の祈りというか、本当の祈りというものは、神様が見せて下さるなと、言う事はその同窓会はね、取り止めになったげな。
けれども何か外のどうでも出来ない事情が起こって、まあ二日間の前の日には、参加出来なかったけれども翌日は朝から、お母さんと一緒に朝の御祈念に参って来て、そのまま参加する事が出来た。まあ神様が半分聞いて下さったと言った様な感じですけれどもね、そういう神様を信心とは信ずることだと言われるがですね、そう言う所から本気で信ずる稽古をしなきゃいけません。だから元が要るです。
ただお願いしよりますではいかんです。本当に息子の事を願ったら、いうなら同窓会にいくらいくら要ると言うた。それは神様にお供えをして、どうぞ息子が学生会の方へおかげを頂きますようにと、いうて願いをたてた、願いをたてただけじやないそこにです、いうなら身も心も削ってからの信心。私は生神への道というのはねねそういう道を繰り返して行くことだと思うです。そして神様がこのようにも一分一厘間違いのない働きを示して下さるんだと確信がいよいよ、出来ていくことだと思うのです。
只漠然と聞いておるこの十八節を。生神とはここに神が生まれると言う事であってと、自分の心の中にそれこそ古屋先生やないけれどもね。と自分がお参りをするときには必ず自動車一台、二台でお参りが出来る人たちが出来てきてしかも、その一人一人がこの様なおかげを頂いて、まあそのことが有難うして有難うしてという。そういう時に我ながらわが心が拝みたい時であり、神様が又拝んで下さる時であり、神様との交流というのは、そういう時に起こってくるんだと私は思います。
だからそういう心を育てていくという手立てが、今井上さんの例と佐田さんの発表の例と、私が日本一を目指すなら日本一を目指すというだけではなくて。ためにはどうあらなければならないかと、なら合楽の総代ねそんならただ総代になった、というだけでなくて本当に何時の世までも残るくらいな、あの人は名総代だったと言われる位の、総代をいうならば目指さなければならない。
それの反対のことを迷総代という。語呂は同じばってん片一方は名人の名、片一方は迷いの迷人。いわゆる迷い総代ではつまらんでしょう。そんなら迷いのおこらんですむほどしの、名総代をとはどうあらねばならないか、どういう心掛けが要るか、どういう信心が要るかと、何時もそのことを心に掛けさせてもろうてね、いけないところも改めて行こう、分かっていなかったところは分かったら、それをいうならば実践の宗教と言われるのですから、それを早速実践して現して行こう。
言う様な信心、そこからいよいよ名総代を目指す。だから生神を目指すと言う事は先ず、なら合楽の名信者を目指すことなんだ。ならいっちょ良か信者になろうと言うた丈ではいかん。為にはですひとつ本気で私どもが拝むことの有り難さ、どういう場合にあってもそこに間が出来るようなその間を大切にさせて頂ける様な信心、ひとつのことを願うたら、どうでもおかげをい頂かなければならない。為には身を削り心を削りしてからでも確信に触れて行かねばならない。
いうならば生神を目指す、一つの過程とでも申しましょうか、だからお互いがです、生神様なんてんならんでよかなんて思わずにです、金光様の信心は一人一人が、生神を目指すと言う事だと言われるのですから、家庭でならば良い、言うならばお婆ちゃんお爺ちゃんであり、お父さんでありお母さんであると、先ずそれを目指さなければいけない、勿論信心に基づいての良いお父さんでなからにゃいかん。
良いお父さんとか良いお母さんとか、というのはだいたい多いですわね、けれどどういう時であっても、確信をもってです、お父さんの言われる事を聞いたら、一家中がどういう心配事があっても、スパッと安心が出来るくらいな、あぁお婆ちゃんが悠然としてござるから、そげん心配はいらんなと、嫁御が思うぐらいなね、そういう意味で私はその家庭の中でも、信心をもとにした生き方が、本当に身に付いて行く様な事から、先ず始めなければならない。
そして合楽の信奉者としては、どうあるべきかといよいよ成り行きを尊び、大切にさせて貰い全ての事に御の字を付けていく、生き方そういう生き方をひとつ、身に付けさせて貰うてです。生神への道をいよいよ進ませて頂きたい。そしてたまにはある自分の心の中のねそれこそ、泣きたい程に有難い喜びを、いよいよ育てて行く為に、なら何がそれを邪魔するか、何がそれを吸収してしまうのか、あぁこういう汚いものがあった。
この汚い物が有り難い物を、吸収しておったんだと分かったら、その吸収していく有り難くなれない、反対のものをです、改め取り除いていくと言う様な、信心を目指させてもらう。生神とはここに、神が生まれると言う事であると同時に、生神とはこの方が、おかげの受け始め、皆もその通りのお陰が受けられる、と仰せられる、おかげを目指して信心を頂きたいものですね。
どうぞ。